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12.12.2002

No.0178

忠臣蔵と【歯磨き剤】

 ご存知の方も多いかとは思いますが、師走12月14日は、赤穂浪士が主君‘浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)’の仇である‘吉良上野介(きらこうづけのすけ)’を討つべく、本所(松坂町)の吉良邸に討ち入りをした日です。時は元禄十五年(西暦1702年)、今からちょうど三百年前の出来事です。

 『忠臣蔵』として伝えらる一連の出来事は諸説入り乱れ、また時間の経過とともに話が美化され創作が加えられたこともあり、正確な史実とは言えない部分も多いようなのですが、まずは事の顛末をご紹介したいと思います。

 幕府から朝廷の勅使の餐応役(接待役)を命ぜられた播州赤穂藩主‘浅野内匠頭’が、接待の責任者であり上司となる‘吉良上野介’からの理不尽な仕打ちに耐え続けるものの、その我慢が限界に達した時、殿中(江戸城)松之廊下にて‘浅野内匠頭’が‘吉良上野介’を刀で斬りつけてしまいます。
 その結果、‘浅野内匠頭’は普通座敷で行われる切腹を庭先でするよう命ぜられ、城・領地は没収、主君のいなくなった浅野家はお家再興を模索しますがこれも叶わずお家断絶という末路に対し、一方の当事者である‘吉良上野介’には一切のお咎めなしという幕府の裁定が下りました。
 無念の死を遂げた主君の仇を討つ為、また不公平な幕府の裁定に抗議する為、赤穂浅野家家老‘大石内蔵助(おおいしくらのすけ)’を中心とした総勢47名の浪士が数々の艱難辛苦に耐え、遂には吉良上野介を討ち取り、見事本懐を遂げるというものです。

 そもそもの事の始まりは、‘吉良上野介’の‘浅野内匠頭’に対するいじめとも取れるような理不尽な仕打ちにあったようなのですが、では一体何故‘吉良上野介’はこの様に恨みを買う行動をとったのでしょうか。

 これまた諸説入り乱れており、また原因も多数考えられる事から断言は出来ないのですが、その中の一つの説に注目してみました。
 その説とは、【歯磨き剤】にまつわるもので、【歯磨き剤】を介して吉良家と浅野家の因縁関係が引き金になったとするものです。

 当時の江戸では、【歯磨き剤】として塩を壷に入れて焼き固めた「焼塩」が普及していたそうです。庶民の間で使われていたのは、現在の千葉県行徳の塩田の塩であったのに対し、時の権力者である徳川家では、三河吉良(静岡県吉良市)から献上される『饗庭(あえば)塩』を使っていました。
 ところがいつしか赤穂浅野の塩が、その品質を高く認められるようになり遂には吉良家の塩に取って代わり、将軍家の御用達になってしまいました。
 そもそも赤穂の塩は、浅野家が吉良家から製塩法を習い、開発に力を入れて良質のものとして完成させたようなのです。
 こうなると吉良家としては面白くありません。歯磨き剤をめぐる商売敵としてだけでなく、表現はよくないかもしれませんが、飼い犬に手を噛まれたようなただならぬ感情を抱いたとしてもおかしくありません。

 このように両家の間に感情的な対立が発生し、一触即発とも言えそうな状況の中、‘浅野内匠頭’に餐応役(接待役)が命じられ、その時の責任者が‘吉良上野介’という最悪の組み合わせになってしまったのです。その結果、不幸な事件は起こるべくして起こりました。

 『忠臣蔵』として広く親しまれている話に、実は【歯磨き剤】をめぐる利害関係や感情の対立が横たわっていたのですね。お叱りを受ける言葉かもしれませんが、テレビや小説の刑事ものでは、「犯罪(動機)の陰には女(又は男)あり。」というのを見聞きしますが「赤穂浪士討ち入りの陰には【歯磨き剤】あり!。」だったのです。

 こじつけるつもりは毛頭ありませんが、TVドラマで『忠臣蔵』が放映される事の多い年末は、「歯や歯茎が痛くても歯医者には忙しいから行けない、行かないで我慢する。」という方が多くなります。12月も下旬になるとお休みする診療所も多くなり、いざ受診しようとしても開いていないということもありますので、早めに受診される事をお勧めします。



神部先生

 

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