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1.10.2002

No.0130

先達の名に触れて思う事

 皆さんは、『小幡英之介(おばたえいのすけ)』という人をご存知ですか?多くの方はご存知ないと思いますし、かく言う私も恥ずかしながら存じ上げませんでした。
 この方は、明治時代の歯科のパイオニアの一人で、日本人歯科医師の第一号という人物なのです。
 大先輩の名を知らなかったという非礼をお許しいただきたいという、私の身勝手な願いも込めまして、この小幡先生について少しご紹介したいと思います。

 小幡先生は豊前中津の藩士の家に生まれ、明治二年に上京しここで医学を学び、更にアメリカ人歯科医師のSt.George Eilliot(エリオット)に師事して歯科医学を学びました。昔は洋の東西を問わず歯科の仕事は、一般の医師の中で歯・口の病気に関心があったり、手先の器用な人々が診療に取組んでいたようです。
 日本では「口中医」といわれる医師が治療を行なっていた他、民間では「入歯師」といわれる入歯を作る職人や、抜歯を見世物にして歯磨き粉や膏薬を売る大道芸の「歯抜き」が行なわれていました。そのような時代にあって、小幡先生は明治八年(1875年)東京医学校に、当時医術の一科であった口中医ではなく、西洋歯科医術を修めたという自負から、「医師試験」ではなく「歯科試験」を出願し、受験しました。
 因みにその当時の口頭試問(面接試験のこと)は、
  @歯鍵を示して、其用法を問ふ。
  A抜去したる大臼歯を示して、其名称・左右の区別・其抜去法を問ふ。
  Bハッチンソン氏歯に関することを問ふ。
の3問で、「小幡の答弁、流るるが如し」と評されるほど優秀であったとのことです。私も学生時代に幾度となく口頭試問を受けましたが、「え〜っと、それはですね〜・・・」から始まる苦し紛れの答弁で、「流るるが如し」とは程遠く、「塞き止めたるダムの如し」でした。
 さて、見事「歯科試験」に合格した小幡先生は、医籍第四号に登録され、日本人初の歯科医術開業免状を受けました。そして明治七年に公布された医制に基づき、歯科医師の第一号となりました。
 この後、明治十六年の「医術開業試験規則」によって新たに「歯科医籍」が設けられ、明治三十九年に「歯科医師法」として認可される事で、歯科は医科と離れ独自の道を歩み始める事となります。  

 世の中は「量から質への時代へ」と言われて久しいですが、医療においては、質の向上に加え、医療人の資質の向上が求められています。
 そもそもその資質を問われるような人間が医療従事者として仕事をしている事自体問題なのでしょうが、「勉強が出来たから」「収入がよさそうだから」「親に言われてしかたなく」といった理由で、医学部・歯学部に入学し、医師・歯科医師としての人格が十分形成されないまま卒業して資格をとるといった者が少なからずいるというのも現状です。患者さんとのコミュニケーションがとれない研修医もかなりいると聞きますし、大学としてもその対策におおわらわという話も耳にします。
 明らかな医療ミスは別として、患者さんやそのご家族とのコミュニケーション不足やしっかりとしたインフォームドコンセントがなされていなかった為に医事紛争に発展するといった事も多くなっているようです。
 私自身この事は全く他人事だとは思えない事態で、自分自身の襟を正す良いきっかけとして捕らえなければならないと思います。

 アメリカの作家、アンブローズ・ピアスは自身の著書「悪魔の辞典」の中で、歯科医師の事をこう書いています。 『歯科医とは、貴方の口の中に金属を入れたかと思うと、あっという間に貴方のポケットから何枚かの硬貨をつまみ出す手品師である。』これは医療に対する不信感をお持ちの方の率直なお気持ちのひとつを鋭く皮肉たっぷりに指摘していると思います。

 省みて自分は、『入歯師』になっていないか、『歯抜き大道芸人』になっていないか、ピアスのいう『手品師』になっていないか、小幡先生をはじめとする先達に対して恥ずべき事をしていないか、お屠蘇気分も早々に切り上げ考え込んでしまいました。

 私達も歯科医師の一人として、「先達の名を汚さぬよう肝に銘じていきたい。」とあらためて心に誓った2002年の元旦でした。



神部先生

 

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